narcissus
画家、そして絵本作家、わたし。目と意識はいつもおもしろそうなことを探している。
仕事は、絵を描くこと。
気分転換は、絵を描くこと。
仕事で描く絵と、楽しみで描く絵、ってときにぜんぜん別物でもあり、ときに同じでもある。絵を描いて、苦しみ、絵を描いてうっぷん晴らしをする。そういう感じ。大学院の2年のときに、銀座の小財堂という画廊で初めての個展をした。画廊の社長の小財さんは、小柄な人だったけれど、熱い魂とビッグな希望をいつも持っていた。10何年か前に亡くなったけれど、今でもときどき、この社長のことをなつかしく思い出す。遠くから、大きな声で「りまこせんせーぇい!」と呼んでくれて、それがすごく恥ずかしかった。でもその大きい声がすごくなつかしかったりする。そのあとずいぶんいろんな画廊さんで個展やグループ展をさせていただいた。銀座の和光、日本橋のオンワードギャラリー日本橋、南青山の新生堂、銀座のみゆき画廊、京都の蔵丘洞画廊、銀座の麻樹画廊(敬称略)。そして、いまは、また途方もなく熱い魂の相模屋美術店(銀座)の社長、原田氏にお世話になっている。ずっと年下だが、尊敬しているし、相談に乗ってもらっている。大学院にいるとき、ときどき本の装画のお仕事を平野甲賀先生にいただいたりしていて、また別ルートで児童図書出版協会の発行している「こどもの本」という月刊誌に2年間表紙の絵を描かせていただいた。それをきっかけに子どもの本の挿絵などを描かせてもらえることになった。で、少しずつやってきて、2005年には、絵本『ぼくのシチュー、ままのシチュー』ハッピーオウル社刊を作った。はじめてのオリジナル絵本。この絵本の書評を新聞に書いてくださった絵本家の広松由希子さんは、じつは、幼稚園(小羊幼稚園。かわいい名前の幼稚園でしょう?)の先輩である。思いがけないつながりがあったりするものだと、いろいろ驚き、喜ぶ。ただ、幼稚園の後輩だから、書評を書いてくれたわけではない(と思う)。絵本を作るのは、編集者さんとの共同作業。いろんな話をしながら、すすめていく。楽しい。おしゃべりが絵本につながる。絵本は、ラフ・スケッチで1冊分の絵と文章を最初に作り上げる。で、いよいよ本画にかかる。本画を描いているうちに、思いがけないことがわかったりする。どうしたらよいかわからなくなる。編集者さんに電話して、相談する。「こんなんなっちゃった、どうしよう」という。するとアトリエに来てくれたりする。で、絵をみて、一緒に考えてくれる。ありがたい。たのしい。そんな今までである。
好きなことは、仲よしの友達との雑談、もしくは、じっと一人で考え事をすること。またはいろんな植物の種を植えること。本は、サロイヤンの『パパ ユーア・クレイジー』が1番。美術作品は、どれが一番とかいえない。でも、パオロ・ウッチェロの「サン・ロマーの戦い」の4点の絵は、いつも心のなかにあるような気がする。そんなわたしは、1965年に東京に生まれた。最初の記憶は、ウールの毛布のふちどり布のサテンの肌触り。いったい何歳の記憶だろう、わからないけれど。次の記憶は、ゲランの香水Mitsukoの香り。そういうとかっこいいように聞こえるかもしれないけれど、そんなことはない。畳にじかにおかれた母のデコラ鏡台の引き出しにMitsukoの香りがしみついていて、そのひきだしを開けたり閉めたりするのが好きだったので、その香りが鮮明に記憶に残っているというだけのこと。最初の絵の展覧会の記憶は1974年の東京国立近代美術館でのアンドリュー・ワイエス展。風でひるがえっているレースのカーテンが、どうして絵に描けるのか、なんて絵なんだ!と感激した。毛皮の帽子をかぶった少年が冬枯れの草原に座ってこちらを見ている。すごいなぁ、かっこいいなぁ、としみじみ見た。青山学院高等部の1年生のころから美術の予備校代々木ゼミナール造形学校に通い、東京芸術大学のデザイン科にはいった。そのあと大学院にすすんで、ここで、「絵をやるもんね」と決めた。卵を使わないテンペラの技法にもこの頃出会って、以来タブローはずっとこのテンペラ技法で描いている。1回決めると、すっぽんのように食いついて、放さない。確信がなくても食いついている。食いつき続けている。でも、いつもこれでいいと思っている。もちろん迷うこともある。でも、やっぱり食いついている。そんな感じでずっとやっている。こんな感じでずっとやっていけたらな。